2006年8月 3日 (木)

出合った言葉

「人は人生に出会うべき人とは必ず出会える しかも一瞬も早くなく遅くなく」
http://plaza.rakuten.co.jp/taopot/profile/

以前一度お会いしたことのある方のHPをたまたま覗いた時に、その方の好きな言葉として書かれてありました。人だけでなく、その場所、出来事、すべてにあてはまるような、またあてはめてしまうような気がしてなりません。
自分を囲む環境も、自分にふさわしいものであると思う。自分に応じたものが引き寄せられる、もしくはつくられていくような気がする。家族や恋人や友人、職場や自分の部屋や近所などは、その時の自分に最適な様相で、不満がある場合は、実は自分自身に対して不満がある場合が多い。それらに自分を投影して不満がるというよりは、自分が見えていないため、自分にふさわしい相手や環境をあたかもそれらが悪いからと自分を正当化しているようだ。または、自分を表現していないせいかもしれない。その場、その人に合わせて、本当の自分をさらけ出していないため、まちがったものを引き寄せてしまっている。

ミヒャエル・エンデ著「モモ」には次のようなことが書かれていたと記憶している。
「世の中の悪はみんな小さなうそから始まっている。みんなたいしたことではないと、時間をかけずに適当に話す無意識のうそだ。」
自分の本当の思いを話し、本当に思っていないことは話さず、思いを行動に移し現実化させる人は自分の思うような人生を歩んでいくことが出来ると思う。逆に、思っていないことを、その場の雰囲気でとか、話を合わせる為とか、人によく思われたいからとか、あまり考えずに話すと、言霊は混乱する。以前言った言葉と今言った言葉は矛盾するので、結局言霊が力を持たず、思いは実現しない。

「本来の自分を生きることで、今の世の中は変えられる」と言ったのは、平山惠さん。
「積極的に生きる人が多くなれば世界はもっと良くなる」とは、操体法の先生。

部屋は自分の分身。気持ちが混乱しているときは部屋の掃除をするといいらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月29日 (木)

ケガレの構造

都市の人は自然や他人や他の生命から遮られ、自分で壁を作り、気の交流ができなくなっているような気がする。
自分の持っている”気”を使うだけなので”気”が枯れていき、「ケガレ(気枯れ)」る。
気を補うすべを知らないから、毎日「ハレ」の服を着て、「ハレ」の食事をするのだろうか。
それが日常になってしまうので、「ハレ」はどんどんエスカレートしていくのかもしれない。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年8月 8日 (月)

道祖神

陰陽の考え方
光のあたる部分と陰になる部分
2つを俯瞰的な目で見たとき初めて本質が見える

2極があることによって
陽から陰へ、陰から陽へ
流れる力が生まれる

木曽福島のユースホステルで見つけた
男女の神が手をつなぎあう、道祖神の話。
異なる者が手をつなぎあうことによって
邪が入ってくるのを防ぐことができる。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年8月 1日 (月)

ピースメーカー

「世界が苦しむ本当に困難な時代が来たとき、その名を呼べばピースメーカーが樹皮に包まれて再来するといわれている。」
ピースメーカーが再来するのが重要なのだと思っていたが「人々が呼ぶ」こと、すなわち人々がピースメーカーを真の意味で求めることが実は重要なのではないかと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月28日 (木)

面白いもの

面白いものを観るのではなく
何の変哲もないところで自分がどれだけそのものたちを面白く感じられるかを感じてみたい。
分からないからとりあえずやってみる。
面白く感じられないのは、自分とそのものとの波長がその時合わなかっただけ。
そしてまた再挑戦する。
そのものたちを感じられた時、世界は拡がる。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年7月22日 (金)

存在について

八ヶ岳の自然観察会に出た時のこと。
何気なく歩いているわずかな空間に、
多くの生命がそれぞれの活動を営んでいることを知った。
それまでの1mがとても広大な空間に感じられた。

花は自分の本性を生きるだけ。
その花に価値を見つけた昆虫たちは、その花の恩恵を被る。
花は自分以外のものになろうとはしない。
そして自分に価値を見つけたものに自分の世界を惜しみなく与える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年9月19日 (日)

写真を撮ること

昔は写真によって魂がうばわれると言われていた。

私は心が空っぽな時、写真を撮る。何が素敵かわからないけれど素敵なものだと世の中でいわれているものの前でも写真をとる。そうすると、退屈していた現実が自分たちの魅力をアピールしはじめる。少しだけ、そのものたちが好きになる。

旅行へ行った時、好きな人と知り合えたとき、雄大な自然に触れたとき、その瞬間は自由でいたい。カメラのファインダーをのぞいているという行為はしていたくない。その一瞬一瞬から感動を吸い尽くしたい。

しかしその感動を友人や家族に伝えようとするとき、ことば足らずの私は伝えきれないもどかしさを感じ、ああ写真を撮っておけばよかったと、後悔するのだった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)